東海道品川宿のはなし 第21回

更新日:平成20年12月12日

品川宿につづいて、大井村の芸能についてお話しましょう。

江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』から大井村の芸能の記述を探すと、東海道沿いの八幡神社(今の鮫洲八幡神社)では、毎年5月に神楽と湯立(ゆだて)が行われていたことがわかります。

また、神明社(今の天祖諏訪神社)においても毎年9月の祭礼に神楽を奏しており、池上道沿いの鹿島社(今の鹿嶋神社)でも毎年6月に豊年を願って神楽が行われていたと記されています。

江戸時代後期の大井村では、鎮守の祭礼ごとに神楽や湯立が行われていたことがわかります。

 

また、現在も鎮守の祭礼には、太鼓・鉦(かね)・笛を組み合わせて演奏される祭囃子がつきものです。

江戸の祭囃子の源流は、葛西囃子とされています。

葛西囃子は享保年間(1716~36)に、葛西(江戸川区)の香取明神の神主能勢環が始めたものといわれています。

この神楽囃子が、のち神田明神の祭礼で奏されてから江戸市中や近郊の農漁村に流行し、まず葛西付近で松江囃子が生まれ、ついで深川囃子、本所囃子などになり、さらに神田囃子が生まれたのです。

この流行は江戸の近郊に広がり渋谷囃子・目黒囃子・馬込囃子が編み出されていきました。

 

この祭囃子が大井村で始められた時期は、地域によってまちまちで、大井囃子は文政3年(1829)に大井村・原(西大井2丁目)の倉本彦五郎の発起によって始められ、目黒囃子系の師匠倉本三五郎を迎えて誕生しました。

その後、倉本三五郎が村の有志に教え、囃子連中がつくられたと伝えています。

そして天保8年になると7名の師匠が出て、大井村のあちこちで太鼓や笛の音が聞こえるようになったのです。

大井村でも東海道に沿った浜川町(立会川河口付近)では天保8年(1824)に始められ、御林町(鮫洲)では、明治3年に始まったと記録されています。

 

戦後とだえていた大井囃子は、昭和36年に大井囃子保存会が結成され、会員も増え、昭和60年に品川区無形民俗文化財に指定されています。

現在、大井囃子保存会が行っている大井囃子の編成は、オオドと呼ぶ大太鼓が1人、シラベと呼ぶ小太鼓がカミとシモの2人、ヨスケと呼ぶ鉦が1人、トンビと呼ぶ笛が1人の五人編成です。

曲目は、まず笛の吹き込みがあって、これに続いて「打込(うちこみ)」、「破矢(はや)」、「乱拍子」、「宮昇殿」、「鎌倉」、「国堅(くにがため)」、「鎌倉四丁目(かまくらしちょうめ)」「玉入」の上(かみ)と下(しも)、「破矢」「納め」の10曲です。

大井囃子は現在でも、2月の節分祭・7月の中祭・10月の大祭などのさい、鹿嶋神社の神楽殿で演奏されています。

 

品川宿27
『大井囃子』
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