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東海道品川宿のはなし 第22回
更新日:平成20年12月12日
江戸の湯屋は、徳川家康が江戸入府した翌年、天正19年(1591)に伊勢の与市というものが銭瓶橋(千代田区大手町)近くにつくったのが始まりとされています。
江戸時代後期の文化年間には、湯屋とか洗湯と呼ばれた風呂屋は、江戸中に600軒余りあったといいます。
この頃の入浴料は大人10文、子ども6文でした。
江戸は風が強く、埃がひどいので毎日入浴する習慣がありましたが、武家屋敷以外は内風呂を設けず、湯屋にでかけていました。
その理由としては、火事を恐れていたこと、薪が高価なこと、水が不自由であったことが考えられます。
品川宿では、延宝元年(1673)に開業したものが一番古く、その後、天保9年(1838)までに5軒となり、株仲間をつくって新規の開業を許さず宿場で保護していました。
新規の開業は、株を持っている者の出張湯という名目でおこなっていました。
このほかに洗足湯という湯屋が南品川猟師町と南品川宿に1軒宛ありました。
当時の湯屋の構造は、入口に暖簾がかかり、内に入れば番台・衣服入れ場がありました。
このほか番台の前から登る階段があり、上には大切なものを預かる老婆がいて、湯茶を出していました。
後には湯女(ゆな)を置くような湯屋もあり、菓子なども売ったのです。
また碁盤や将棋盤などもあり、湯に入る者はここに集まって、格好の社交場となっていました。
湯漕の入口には石榴口 (ざくろぐち)という、湯の冷めるのを防ぐために風呂の上に箱を被せたようなものがあり、身を屈めて中に入ったのです。
石榴口の外部は立派なもので、破風 (はふ)形や鳥居形で絵が描かれていました。
この湯屋は、始めは混浴でしたが、寛政6年(1799)に禁じられ、日割りで女湯は月6日と湯屋仲間で申し合わせ、その後、女湯と男湯と入口を別にするようになったのです。
品川宿においては、5人の株仲間以外の者が湯屋を営業するのを認めなかったので、新規に始めるものは薬湯という名目で開業しました。
薬湯は薬湯 (くすりゆ)ともいい、文化14年(1814)に歩行新宿に初めて開業したのですが、湯屋仲間は訴訟を起こして停止させたのです。
その後も湯屋と紛らわしい営業をしているものがあり、両者は度々諍いを起こしていました。
安政4年(1857)に北品川宿にて「和倉温泉」、南品川宿にて「熱海温泉」いう名の温泉薬湯を始めた者がありましたが、開業にあたり宿役人や湯屋仲間の立会で取り調べを行った結果、薬湯に間違いなく、病人のみの入浴を営業としたので、湯屋からの抗議もなく営業を続けることができました。
このように、人口の増加に伴い、湯屋が少ないことが自ら不便となったため、薬湯と称してその数を増やしていったのです。
幕末の湯屋は、薬湯・洗足湯などを含め11軒になっていました。
この他に、碇泊の船舶を回って入浴させていた湯船というものもありました。
文政11年(1828)の記録では、南・北品川宿に1艘ずつあったと記されています。
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