東海道品川宿のはなし 第25回

更新日:平成20年12月15日

地震は、古くは「なゐ」とか「なゐふる」などといわれ、天災のなかでももっとも恐れられていました。

江戸をおそった大地震の記録は、古いものでは慶長9年(1605)、12月の関東大地震であり、以後たびたび地震の被害に遭っています。

 

なかでも大きかった地震をあげますと、慶安2年(1649)7月25日の地震で、品川の記録は不明ですが、川崎宿では民家140~150軒と寺院7宇が倒壊しており、江戸周辺での被害が甚大でした。

また、元禄16年(1703)11月23日の地震では、小田原から品川までで死者1万5000人、平塚宿・戸塚宿では残った家がなかったと伝えています。

品川付近では津波が襲来、1尺(約30センチメートル)前後の地割れをおこしたとの記録が残っています。

その後、文化9年(1812)11月4日の地震でも大きな被害がでたようですが、詳しいデータはわかっていません。

 

多くの地震のなかで、幕末に起こった安政の「大ゆれ」は、記録の面からもやはり江戸にとって一大地震でした。

安政2年(1855)10月2日、夜10時ごろ大地が揺れはじめ、夜明けまで30余回という烈しい揺れに見舞われました。

暗黒のなか、続いて発生した火災のため人々は逃げ場を失い、その惨状は目を覆うばかりでした。

この大地震は、震源地が江戸直下、今の荒川河口付近とされ、被害は江戸市中とくに深川・本所・下谷・浅草で著しく、その後の火災が追い打ちをかけました。

倒壊・焼失家屋は約1万5000軒、崩れた土蔵は約1400、町方の死者は約4000人、武家・寺社方もあわせた死者は7千から1万人と推測されています。

 

品川周辺での被害については、被災3日後に品川宿から代官所に出された報告書には、家数1691軒中、半壊家屋14軒、大破家屋1422軒、小破家屋161軒であった、この他に本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋92軒、土蔵217カ所、問屋場1カ所が大破したとあります。

このほか町奉行支配の寺社門前地での倒壊家屋などの数は不明ですが、4人の死者が出たとあります。

品川宿周辺の村では、小山村で家数65軒中20軒の破損家屋がでたほかは、中延村・桐ヶ谷村で数軒の破損家屋があったと記録されています。

このほか築造間もない品川台場の二番台場で、建物が潰れて出火し、幸い火薬には引火しなかったのですが警固の会津藩士に50人の死者が出たと記録されています。

 

この大地震での被害者救済としては、幕府による炊きだしの実施、御救小屋 (おすくいごや)の建設、御救米(おすくいまい)の支給などをはじめ、武家や寺院のほか大店などの富裕な町人による施行などが行われました。

品川宿では、南品川宿荏川町(えがわまち)(品川図書館付近)の、俗に「薩摩屋敷」と呼ばれたところに避難所を2棟建てて被災者の収容にあたりました。

このほか品川宿では、火の用心や泥棒など悪者の立ち入りを警戒するため、自警団を組織して火の番屋6カ所、出張番屋10カ所を設け、昼夜警戒にあたったのです。

 

地震直後の10月4日には、火災の状況を知らせる瓦版の類が売られはじめ、鯰が地震をひき起こしたという俗信にもとづいた「鯰絵」が世直しへの期待をこめて流行したのも、この地震の特徴的なことでした。

このように、「安政の大地震」は、ただでさえ内外に課題を抱えた幕府に打撃を与え、また、庶民の中にあった「世直し」願望に火をつけたという点で、幕末の世相に大きな影響を与えることとなったのです。

 

当時流行した「鯰絵」のいろいろ

◆左から
 ・『えんまの子のわけ』(部分)
 ・『かけ合あふむ石』
 ・『大鯰江戸の賑ひ』
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