東海道品川宿のはなし 第27回

更新日:平成20年12月15日

さて、今回は人を乗せた船による海上交通についてお話しましょう。

江戸時代の浮世絵師歌川広重らが品川沖を描いた錦絵には、海上の物資輸送に利用された弁財船 (べざいぶね)の帆走しているところや、沖に碇泊している姿をみることができます。

江戸の港は遠浅のため、貢米船や廻船は佃沖から品川沖に碇泊し、瀬取 (せどり)と呼ぶ親船から小舟(艀船)に積み替える方法で物資を江戸に送っていました。

江戸時代の人や物の移動については、年貢米や酒など、大量に消費される物資は船を利用し、さまざまな目的で行われる人の旅については陸路を利用するという、「人間は陸路、荷は海路」が原則でした。

江戸内湾(今の東京湾)の中でも、人を乗せた船の運航には規制がありました。

例外として幕府は、上総国(千葉県)木更津の水主 (かこ)(水夫)たちに航路運営の特権を与えて木更津から江戸や神奈川宿への航路を開かせ、貨客の輸送にあたらせました。

この渡海船のことを木更津船と呼んでいます。 

 

このような例外を除き、旅客の海上交通は原則として禁止されていました。

特に宿場に面した沿岸地域では、陸上交通の要となる伝馬宿(幕府公用の旅人には無償で人馬を提供する義務のあった宿場)を保護するため、江戸から船で川崎や神奈川宿へ行くことは禁じられていたのです。

品川宿の場合、江戸からの海上航路は品川宿入口の八ッ山下 船着き場までは許されていましたが、これより南下する大森や神奈川方向への航行は禁じられていました。

ところが、江戸から富士山や大山へ参詣する人びとの中には、禁止されているにもかかわらず、猟船 (りょうぶね)(漁船)などの海船で海を渡っている者が少なくなかったのです。

そういったなか、大山参りが盛んになり多くの人びとがやって来たとき、大井村などから禁止令を破って江戸まで船を航行したために、寛政12年(1800)に改めて禁令が出たのです。

 

しかし、何度も禁止令がでているのもかかわらず、旅人にしてみれば、陸路では歩けば疲れ、駕籠に乗ればお金がかかるところを、船に乗って行けばずっと楽に目的地まで着くことができるため、禁令を破って航海するものがあとを絶ちませんでした。

このため品川宿では代官所に禁令の徹底を願い出て、文化2年(1805)には、品川宿から保土ヶ谷宿までの海辺に面した村々に対し、禁止令を破ったものを見たりしたときはこれを捕らえて処罰するのはもちろん、風聞などによっても召捕らえる、その上、村役人まで処罰する、といったきつい禁令が出されたのです。

そして、江戸の市中にも町触を出し、江戸からの海路は品川宿入口の八ッ山下 船着き場までであり、直接神奈川宿あたりまで人を乗せた船を出してはならない、と御府内の渡船業者に通達したのです。

このように、品川宿から人を運ぶ海路は、伝馬宿保護のため、商船の航行はありましたが定期航路のような船の運航はおこなわれませんでした。

 

さいごに、商船以外で品川沖を入港・出帆した大船の記録を見てみましょう。

古くは寛永12年に官船「安宅丸」が入港し、その後も幕府の艦船の入港した記録があります。

品川沖が歴史の舞台になるのは幕末で、外国との交通が始まると、英国船はじめ各国の艦船が沖に碇泊することとなりました。

安政7年(1860)1月には勝海舟らが使節として米国へ咸臨丸で出帆し、文久3年(1863)、15代将軍家茂が上洛したときには、帰路は軍艦朝陽丸によって海路をとり品川沖に着船、さらに慶応4年(1868)8月19日には榎本艦隊(主力艦はオランダで建造された「開陽」)が品川沖から箱館へと脱出していきました。

このように幕末の品川沖は、陸路である品川宿と同様に歴史の舞台となっていったのです。

 

品川宿33
『江戸名所の内 品川の駅海上』歌川広重(初代)

(品川歴史館:蔵)

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