東海道品川宿のはなし 第28回

更新日:平成20年12月15日

江戸時代の品川区域は、品川宿や猟師町を除くと純然とした農村でした。

品川三宿のなかでも歩行新宿 (かちしんしゅく)はすべて屋敷地で 田畑はなかったのですが、南・北品川宿は、街道沿いを除き田畑が拡がっていました。

また、目黒川や立会川流域の平坦地には水田が開かれていましたが、他の大部分は丘陵地で畑が多く、雨水や湧水による耕作がおこなわれていました。

江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、荏原郡の村々は高低のある丘が続き、田畑、原野・山林が多く、土質も穀物に適さないと記され、品川領の各村はいずれも水田よりも陸田(陸稲 (おかぼ))が多く、土質は砂まじりで日照りの害に遭いやすいと記されています。

このような土地柄であったため、品川領の農民は灌漑用水の開鑿 (かいさく)を幕府に嘆願し、品川用水や三田用水が引かれることになったのです。

 

当時の作物は、年貢用の米であり、加えて農民の生活を維持するための麦・粟・稗・蕎麦・大豆・小豆などの雑穀類が栽培され、菜・大根・茄子などの野菜類も自家用消費用以外に江戸や品川宿に供給する商品作物として作られていました。

当時、商品作物として栽培されるようになった多葉粉 (たばこ)(煙草)や染料となる染草は作っていなかったようです。

東海道周辺の宿や村のことを記録した「東海道宿村大概帳」 (とうかいどうしゅくそんたいがいちょう)によると、品川宿周辺の名物に「品川葱・大井人参といって此所 (ここ)の名物なり」とあり、品川葱は白茎の長い根深葱として好まれるようになったといいます。

大井人参については大井村の名産でしたが詳細が伝えられていません。

「品川カブ」というのもありました。これは、根がやや長いカブで、江戸時代には冬を越して春まで食べる漬け物の材料として、品川から荏原地域にかけて大量に作られたと伝えています。

 

 居木橋村 (いるぎばしむら)(今の品川区大崎付近)には、江戸時代初めに沢庵和尚が上方から種を取り寄せ、名主の松原庄左衛門に栽培させたという伝承がある「居木橋カボチャ」があります。居木橋カボチャは別名縮緬カボチャといわれ、15本ほどの溝があり、一面こぶ状の小突起があります。始めは黒色ですが、熟すと褐色になり、果肉は鮮やかな黄色で美味だったといわれています。

明治の中頃まで、この地域の特産品として知られていました。

また、戸越村周辺では筍を栽培していました。

戸越村に別荘を持っていた江戸の回船問屋・山路治郎兵衛勝孝という人が、寛政年間(1789~1800) 薩摩藩上屋敷を通じて孟宗竹を入手して栽培したのが始まりといわれ、次第に周辺の農家にひろがり、このあたりの重要な特産品となったのです。

 

このように、品川区域は江戸時代の早い時期に、江戸で消費する野菜の生産地になったことがうかがえます。

そして、地名のついた、質の良い、現代でいうところの「ブランド野菜」が作られていたのです。

 

品川宿34
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