東海道品川宿のはなし 第33回

更新日:2012年8月7日

ペリー来航以来、幕府の開港政策に反抗していた尊皇攘夷の志士たちは、つぎつぎに外国人殺傷事件を引き起こしました。

最初は安政6年(1859)7月27日の横浜でのロシア士官と水夫殺傷事件で、さらに万延元年(1860)12月5日の夜にはアメリカ公使館員ヒュースケンが清河八郎一派の志士に暗殺されるなど、いたましい殺人事件が相次いで起こっています。

 

この事件より前、3月3日の雪の朝、安政の大獄などの弾圧政策を憎んだ水戸浪士ら18名は、江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺する事件をおこしました。

直弼を襲った水戸浪士らは、前日、品川・歩行新宿の引手茶屋「いなばや」に集合し、その後「相模屋」、通称「土蔵相模 (どぞうさがみ)」に移って最後の酒宴をし、再び「いなばや」に戻った後、襲撃に出発したのです。

その中のひとりで、維新後まで生き延びた海後磋磯之介 (かいごさきのすけ)は、2月下旬に襲撃に加わるため江戸へ来たものの、水戸浪士への探索が厳しく江戸市中で泊まることができず、この世の思い出にと品川宿で居続けを決め込んだと回顧談で語っています。

 

開港の後引き起こされた対外係争事件は、おおむね1人から2人を対象とし、殺傷したものだったのですが、5月28日に水戸浪士有賀半弥 (ありがはんや)、武州浪人吉田宇衛門ら同志14名が高輪の東禅寺にあったイギリス公使館を襲撃した事件は、公使館員全員の殺害をねらったものでした。

当時公使館には幕府から派遣された約200名の警備隊がいたため、館員の負傷は2名と少数でしたが、警備兵の死者は約20名にのぼりました。

このときも公使館を襲った水戸浪士は品川宿に泊まっていたのです。

旅籠屋の名は「虎屋」であったと記録されています。

 

同じ年の8月21日には、横浜・生麦村付近で鹿児島藩士奈良原喜左衛門が、藩主の父・島津久光の行列に遭遇したイギリス人4名を殺傷に及んだ、いわゆる生麦事件が発生するなど、開港後2年あまりの間の出来事としては、外国人に対する殺傷事件はかなりの件数にのぼったのでした。

その後、文久2年(1862)12月13日には長州藩士高杉晋作ら13名によって、品川・御殿山に建設中のイギリス公使館が焼き討ちにあい、全焼しています。

 

慶応3年(1867)、幕府を倒す一つの手段として、薩摩藩は相楽総三 (さがらそうぞう)らに浪士隊を結成させ、三田の薩摩藩邸を拠点に、関東各地や江戸市中を荒らしまわるなど、治安を乱し、市中に混乱を招く活動をさかんに行わせました。

まもなく大政奉還となり、薩摩藩のやりくちにたまりかねた幕府側諸藩の兵は、12月25日薩摩藩邸を焼き討ちしたのです。

相楽らは逃走途中、追っ手を防ぐために家々に火をつけ、芝付近(現在の港区芝)や、品川宿のうち南品川宿の多くは焼失してしまいました。

 

慶応3年の大政奉還・王政復古で、江戸幕府の支配は名目上終止符が打たれたのですが、その前からの一連の事件、世直し一揆、打ち壊しに見られるように、激動の幕末維新の荒波は、江戸の出入り口である品川宿にも押し寄せてきたのです。

 

品川宿391品川宿392
◆左から

・昭和初期の「土蔵相模」

・「土蔵相模」があった場所の現在の様子

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