東海道品川宿のはなし 第34回

更新日:平成20年12月15日

嘉永6年(1853)6月3日、ペリーが浦賀に来航してからというもの、台場の築造、開港後の東禅寺襲撃事件・生麦事件などの外国人殺傷事件の頻発、さらに文久2年(1862)12月13日には品川御殿山のイギリス公使館焼き討ち事件も起こり、品川宿周辺は騒然としていました。

 

この年の閏 (うるう)8月、参勤交代制度の緩和措置が行われました。

参勤交代制度は幕府の体制維持に最良の仕組みであったともいわれ、その経費が藩財政を圧迫する一方、江戸は繁栄を維持することができたのです。

東海道一番目の宿場、品川宿もその恩恵をうけていたことになります。

この緩和令がでると、反幕府的立場を明らかにしていた長州藩などは、上屋敷にあった建具などまで国もとへ送るといった行動にでたため、品川宿は一時輸送関係で大変なさわぎになりました。

その後、元治元年(1864)9月には、参勤交代を旧に復すとしたものの、諸大名の抵抗は強まり、江戸在府の制度は有名無実と化してしまったのです。

 

こういった攘夷問題にたいして、有力大名などの画策がやむことなく行われました。

こうした中、14代将軍家茂は皇妹和宮内親王と結婚し、文久3年(1863)2月には、前代未聞という将軍の上洛がありました。

将軍としては3代家光以来230年ぶりとなるもので、このとき将軍家茂は品川の東海寺で昼食をとったと記録に残されています。

 

この家茂の上洛は、公武合体を進めるためであり、その後、元治元年正月にもまた上洛して、公武合体の実現をはかったのですが、成果をあげることはできず江戸に帰府したのです。

この道中、旗本は東海道を行くものと中山道を行くものに分けられていました。

このときの東海道各宿では、一日人足500人、馬250匹の提供を命じられたのです。

 

元治元年の長州出兵のときにも、多くの部隊が通り、武器弾薬が運ばれました。

品川宿や周辺の村々は、昼夜休むことなく継ぎ立てや人馬動員に駆り立てられたため、大変なダメージをうけたのです。

このため、品川宿や周辺の村々はますます疲弊し、人馬数を減らすことや助郷への割増金を願い出ただけでなく、前金による支払をも求めたのは品川宿はじまって以来のことでした。

幕府の弱体化を端的に物語るものといえましょう。

 

品川宿40
慶応元年の将軍家茂の御進発を頼朝の行軍に見立てた錦絵。

将軍についてとりあげることは差し障りがあるため、こういった見立てが行われたもの。

・ 『頼朝公行烈(列)之図』(歌川 貞秀・画)

 品川歴史館:蔵

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