大正時代の品川 第2回

更新日:平成20年12月15日

今回は、大正時代の品川を紹介する前に、品川区域の鉄道の歴史を少し見てみましょう。

明治5年5月7日(西暦1872年6月12日)、日本で初めての鉄道が、品川・横浜間で仮営業 (かりえいぎょう)を開始しました。

仮営業のため、途中に駅はなく、所要時間は35分でした。

その4ヶ月後、新橋・横浜間が正式に全線開通し、片道53分、途中には品川、川崎、鶴見、神奈川の4駅が設けられました。

当時の新橋駅は現在の汐留 (しおどめ)地区にあり、横浜駅は現在の桜木町駅の位置にありました。

品川駅も現在の場所から300メートル余り南の八ッ山橋北側付近にありました。

  

このころは「駅」という呼び名ではなく「停車場 (ていしゃば)」といいました。

駅というようになったのは明治22年(1889)以降と言われています。

その後の鉄道は、急速に発展していきます。

品川区域での大きな変化は、日本鉄道会社の品川線の開業でした。

日本鉄道会社は東京から東北日本に向かう幹線鉄道の建設を進めた日本最初の民営鉄道会社です。

品川線は現在の山手線 (やまのてせん)と赤羽線にあたります。

明治18年(1885)3月1日、品川・赤羽間の営業を開始し、その半月後(3月16日)に目黒駅が開業しました。

当時目黒駅は五反田寄りの上大崎村字西ノ谷 (かみおおさきむらあざにしのたに)にあり、現在地に移ったのは明治23年のことでした。

そして日清戦争のときに、軍用列車が品川駅でスイッチ・バックする手数を省くために大崎・大井間の短絡線を建設し、(1894)8月に開通させました。

この分岐点に明治34年(1901)2月25日、大崎駅が開業したのです。

  

日露戦争が終わると、政府、経済界、軍部も一体となって鉄道の国有化を推し進め、明治39年(1906)11月1日、鉄道国有法によって日本鉄道会社ほか主要な鉄道会社は買収され、国有化されていきます。

  

明治42年(1909)12月16日、烏森 (からすもり)(現在の新橋)、品川、新宿、池袋、田端、上野間に電車の運転がはじまりました。

すべて電車になったわけではなく、列車線に、電車と蒸気機関車が牽引する列車との併行運転の状態でした。

この電車の運転にあわせて明治44年(1911)10月15日に五反田駅が開業しています。

山手線が列車運転を廃止して、電車および貨物列車用になったのは大正3年12月27日のことでした。

その後、山手線は電車専用線となっていくのですが、まだ、山手線は環状線ではありませんでした。

大正14年11月に上野・神田間の高架工事が完成して、山手線28駅(現在は29駅)の循環運転が実現したのです。

  

関東大震災による打撃にもかかわらず、現在の山手線・中央線・京浜東北線は、大正末期から昭和初期に輸送力の飛躍的な発展がみられました。

あわせて、同じ時期に東京近郊の市街地化がすすみ、近郊私鉄の接続点となりました。

品川区域では品川駅に京浜電鉄、五反田に池上電鉄、目黒駅に目蒲電鉄(現在、目黒線)、大井町駅に大井町線が開通し、この地域の輸送系統の原型ができあがったといえましょう。

 

次回は、9月1日から「大正時代の品川、私鉄の開通(1)」をお送りいたします。

 

大正2
・遠足と汽車(大崎駅発) 竹内重雄 

 大正風俗スケッチ(品川歴史館資料)

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