大正時代の品川 第7回

更新日:平成20年12月15日

明治期の小学校の修学年限は、数度の小学校令改正により変更されていますが、明治33年(1900)の改正で、義務教育制度の整備(義務教育の無償化)がなされ、尋常小学校は4年制となり、高等小学校も4年制となりました。

明治40年(1907)3月には、義務教育年限が2年延長され、尋常小学校は6年制、高等小学校の修業年限は2年となりました。  

 

さらに進学する場合は中学校となりますが、この中学校は概ね現在の中学校の後期課程から高等学校にあたります。

明治期の品川には、中学校といえば、明治37年(1904)に創立された日蓮宗大学林中等科(現在の立正高校)に、翌38年に開校された日本体操学校附属の荏原中学校(大田区に移転し現在の高校)の2校だけで、公立の中学校も女学校もありませんでした。

しかし、大正期に入って徐々に住宅地化が進み、住民の教育に対する熱意が高まるにつれて、中学校の設立は当然必要となってきました。

 

この様な情勢のなかで、この時期に、まず大正7年(1918)に荏原郡立の荏原実科高等女学校(後の東京府立第八高等女学校、現在の八潮高校の前身)が設立され、次いで大正12年には、東京府立第八中学校(現在の小山台高校の前身)が設立されました。

私立学校では、大正10年(1921)に星商業学校が現在の星薬科大学の地に開校しています。

 

荏原実科高等女学校は、大正7年の設立から10年間、校地や名称など大きく変わった経緯があります。

同校は大正7年に荏原郡長らの企画で急遽誕生した学校で、設立のための寄付金が全部集まらないうちに学校を発足させ、校舎も荏原郡役所の議事堂(今の北品川3丁目10番付近)を仮校舎として、古い会議室に畳を入れ、裁縫の机を並べて開校しました。

その後、郡役所の改築によって、お台場の工場跡を教室に授業が続けられ、その間に学校敷地も浅間台(現在の南品川6丁目15番付近)に決まり、翌大正8年1月に議事堂の建物を移築して、お台場から移りました。

同年4月には学則を改正して、修学年限を4年とし、新校舎も9月に完成しています。

その後、大正10年4月には、実科高等女学校から高等女学校に組織替えがおこなわれ、さらに大正12年に郡制が廃止されると、校名も東京府立品川高等女学校となり、昭和2年には東京府立第八高等女学校となりました。

校地も昭和9年(1934)に東品川(現在の八潮高校の地)に移転しました。

 

大正12年(1923)に東京府立第八中学校が設立されますが、当時の東京府には府立中学校が5校しかなく、東京市の膨張とともに府立中学の増設が必要となり、急遽、大正10年、新宿に府立六中(現新宿高校)が、ついで11年に城東の隅田に府立七中(現隅田川高校)が、そして12年に荏原郡に府立八中が設立されたのです。

府立八中は、荏原郡品川町三木尋常小学校校舎の一部を借りて、授業を始めました。

その後、13年4月、平塚村小山に新校舎の一部が落成して移転しましたが、校地が小山に決定したいきさつはわかっていません。

当時目蒲線(現在、目黒線)の開設目前であり、東京府が今後この地域が住宅地域の中心となることを予想したのではないかとされています。

ところで、当初の目蒲線の予定路線は現在より北側となっていたらしく、それにあわせて正門を北側に設けたところ、実際には南側を通ることになり、当時の小山駅(現在の武蔵小山駅)が裏門に近いという結果になってしまいました。

大正時代、急激な宅地化に伴う人口増と、住民の教育への思いが、仮校舎でもまず授業を始めるという形で中学校、女学校を開設していったのです。

 

次回は2月1日から、「大正時代の品川  関東大震災の被災状況(1)大井町・平塚町の状況」をお送りいたします。

 

大正7
・ 日本体育会体操学校と荏原中学(大正8年4月)

(竹内重雄スケッチ)

 

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