品川人物伝 第1回

更新日:平成22年6月30日

鉄道の父 井上勝

品川歴史散歩案内 品川人物伝 第1回 鉄道の父 井上勝(まさる)  22.8.1~8.31 

品川人物伝第1回は、品川区北品川4丁目の東海寺大山墓地に眠る鉄道の創始者、井上勝を紹介します。

井上勝は天保(てんぽう)14年(1843年)、長州藩士・井上勝行(かつゆき)の第3子として現在の山口県萩市に生まれました。

幼名は卯八(うはち)、6歳で野村家の養子となり弥吉(やきち)と改めました。

後に井上家に復しています。

幕末期の渡英

文久(ぶんきゅう)3年(1863年)、21歳のとき、同じく長州藩士であった井上聞多(もんた)・伊藤俊輔(しゅんすけ)・遠藤謹助(きんすけ)・山尾庸三(ようぞう)とともに、海外渡航禁止の国法を犯して密かにイギリスへ渡り、ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドンに入学しました。

時代は幕末動乱の渦中にあり、彼らが渡航した翌年の元治(げんじ)元年(1864年)には、長州藩が関門海峡を通過する外国船に砲撃を行った報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊による下関攻撃が計画されました。

このニュースに接した伊藤俊輔・井上聞多は、連合艦隊による攻撃を回避するため、急遽帰国します。

志半ばにして帰国した2人は明治新政府の中で頭角を現し、その後、政治家として要職を歴任していきます。

鉄道発展への尽力

一方、イギリスに残った井上勝は鉱山技術や鉄道技術などを学び、明治元年(1868年)に帰国します。

明治4年(1871年)に29歳で初代の鉄道頭(てつどうのかみ)に就任し、翌年5月にまず品川・横浜間の仮営業がはじまります。

本営業の新橋・横浜間が全通するのは9月でした。

その後、工部省鉄道局長、工部大輔(だゆう)、鉄道庁長官を歴任し明治26年に退官しました。

その間、国内の鉄道敷設に尽力し、退官後は汽車製造会社を創設するなど一生を鉄道に捧げました。

日本の鉄道を発展させることを生涯のライフワークとした井上勝ですが、鉄道局長官時代に岩手県を訪れたことがきっかけとなり、明治24年(1891年)、岩手県雫石(しずくいし)に小岩井(こいわい)農場を創設しています。

「小岩井」の名は、井上勝と共同創設者の日本鉄道会社社長の小野義真(ぎしん)、三菱財閥の岩崎弥之助(やのすけ)の3人の名前から一文字ずつとって名付けられたものです。

農場経営に参入した背景には、鉄道建設のため多くの耕地などを潰した埋め合わせをしたいとの気持ちがあったと伝えられています。

鉄道記念物に指定された墓所

明治43年(1910年)8月2日、井上勝は鉄道院顧問としてヨーロッパ視察の途中、ロンドンで客死します。

遺骨は死後もなお鉄道を見守っていたいという本人の意向に従い、東海道線と山手線に挟まれた東海寺大山墓地の一角に葬られました。

この墓所は昭和39年10月14日、鉄道記念物に指定されました。

鉄道の発展と安全を願うように建つ墓所の前後を、今日も多くの電車が走り続けています。

 

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井上勝の墓所

 

次回のお知らせ

品川人物伝第2回は、尾崎行雄(ゆきお)をお送りします。

 

 

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