品川人物伝 第2回

更新日:平成22年8月2日

憲政の神様 尾崎行雄(ゆきお)

品川歴史散歩案内 品川人物伝 第2回 22.9.1~9.30

憲政の神様 尾崎 行雄(ゆきお)

品川人物伝 第2回は、『憲政の神様』と称される政治家、尾崎行雄を紹介します。

尾崎行雄は品川区北品川3丁目、現在の品川小学校の辺りに居を構えていました。

波乱に富んだ人生

尾崎行雄の生涯は波乱に富んでいます。

その概略を振りかえってみます。

行雄は安政5年(1858年)、尾崎行正の長男として神奈川県津久井町に生まれました。

幼名は彦太郎、父行正(ゆきまさ)は板垣退助を崇敬し戊辰(ぼしん)戦争の際に板垣の軍に参加しています。

17歳の時、福沢諭吉の慶応義塾に入塾しますが、中途で退学し工学寮・現在の東京大学工学部に学びました。

明治12年(1879年)、22歳の時に福沢諭吉の推薦で新潟新聞主筆となり、この年、最初の妻、繁子と結婚しています。 

政治活動への参加

明治15年(1882年)の大隈重信を中心とした立憲改進党の結成に参加。

明治20年(1887年)には、政府の進める条約改正案等に反対し、保安条例違反で東京退去を命ぜられています。

これを機に欧米への外遊に出発し、船上で執筆した『退去日録』は明治21年4月に初版が刊行され、政治小説としてベストセラーになりました。

明治23年(1890年)に行われた第1回衆議院議員の総選挙では、三重県から立候補して当選しています。

明治31年(1898年)、大隈・板垣の内閣では文部大臣として入閣、その後、伊藤博文を総裁とする立憲政友会の創立にも参画しています。

明治36年(1903年)から大正元年(1912年)までは東京市長を務め、さらに、大正時代の憲政擁護運動ではその先頭に立って行動しました。

衆議院議員には初当選以来、昭和28年(1953年)まで連続して当選。

終始、憲法に基づく議会政治、政党政治のために尽くしました。

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憲政記念館の尾崎行雄銅像 

約27年間の品川での生活

尾崎行雄の品川での生活は、明治34年頃から昭和3年までの約27年間に及びます。

この家で、先妻の繁子を見送り、翌々年に、イギリス人女性テオドラ、日本名は尾崎英子と再婚し暮らしました。

テオドラは日本文学の古典『源氏物語』を英訳してイギリスに紹介しています。

行雄自身も、与謝野晶子をはじめ歌人や文学者と交際し、品川の尾崎邸に彼らを迎えています。

また、行雄は娘たちと一緒に自宅の周辺をよく散策し、近隣に住む人々とも交流を持ち、慕われていました。

昭和29年(1954年)、97歳で逝去。

葬儀は築地の本願寺で衆議院葬として行われ、たくさんの会葬者がかけつけました。

墓所は晩年を過ごした逗子の近く・鎌倉の円覚寺にあります。

次回のお知らせ

品川人物伝 第3回は、 山内容堂(やまうちようどう)をお送りします。

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