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品川人物伝 第3回

更新日:2013年11月12日

幕末の四賢候(しけんこう) 山内容堂(ようどう)

品川歴史散歩案内 品川人物伝 第3回 22.10.1~10.31

幕末の四賢候(しけんこう)山内容堂(ようどう)

 

品川人物伝 第3回は、品川区東大井4丁目・区立大井公園隣の墓所に眠る山内容堂を紹介します。

山内容堂は、本名を豊信(とよしげ)といい、文政10年(1827年)土佐高知藩山内家の分家、山内豊著(とよあきら)の長子として生まれました。

幼名は輝衛(てるえ)、容堂と号しました。13代藩主豊熙(とよてる)、14代豊惇(とよあつ)が急死し、本家後継者の豊範(とよのり)がまだ幼かったため、嘉永(かえい)元年(1848年)、22歳で15代藩主になりました。

 

国政への参加

嘉永6年(1853年)、ペリーが日本の開国を求め浦賀に来航した際には、外交意見書を幕府に提出し、国政へ積極的に関与していきます。

またこの頃から吉田東洋(とうよう)を抜擢し、藩財政の建て直しや海防強化などの藩政改革を推し進めました。

その後、13代将軍徳川家定(いえさだ)の跡継ぎ問題では、越前藩主の松平慶永(よしなが)などと共に、一橋慶喜(よしのぶ)を推し、徳川慶福(よしとみ)を擁立する井伊直弼(いいなおすけ)らと対立しました。

安政5年(1858年)、井伊直弼が大老に就任、慶福が14代将軍になると、井伊直弼は慶喜を推した一橋派をはじめ反対派の大弾圧を行います。

いわゆる『安政(あんせい)の大獄(たいごく)』です。

 

隠居後の生活

こうした情勢のなか、容堂は安政6年(1859年)2月、幕府に隠居願いを出し、家督を豊範に譲りますが、同年10月に幕府より謹慎を命じられます。

隠居後の9月に大井村にあった下屋敷に移り住み、謹慎が解かれるまでの2年半ほどを、ここで過ごしました。

下屋敷があった場所は、現在の京浜急行の立会川駅西側、区立浜川中学校周辺にあたります。

その間、得意とする詩歌や愛する酒を楽しみ、自らを『鯨海酔候(げいかいすいこう)』と称しました。

政界への復帰を思いながら日々を送っていたといわれます。

 

政界への復帰

万延(まんえん)元年(1860年)井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸浪士に暗殺されると、政情は大きく激変し転機が訪れます。

文久(ぶんきゅう)2年(1862年)4月に、謹慎が解かれると、再び藩の実権を掌握し政治の中枢に返り咲いたのです。

朝廷と幕府の融和を図る公武合体を掲げ、雄藩連合を目指して積極的な活動を再開しました。

しかし、第2次長州征伐の失敗等により幕府の権威はさらに低下していきます。

慶応3年(1867年)、容堂は坂本龍馬発案の大政奉還を将軍に建白し実現させました。

維新後は明治政府の役職に就きましたが、間もなく全ての職を辞めてしまい、明治2年(1869年)からは、箱崎(現中央区)の別邸で隠居生活を送りました。

明治5年(1872年)病のため、46歳の若さで死去。

墓所は品川区指定史跡となっています。 

 

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山内容堂の墓所

 

次回のお知らせ

次回は品川人物伝 第4回 板垣退助をお送りします。 

 

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