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品川人物伝 第4回

更新日:2010年12月1日

自由民権運動の指導者 板垣退助(たいすけ)

品川歴史散歩案内 品川人物伝 第4回 22.11.1~11.30

自由民権運動の指導者 板垣 退助(たいすけ)

 

品川人物伝 第4回は、北品川3丁目の高源院(こうげんいん)墓地に眠る自由民権運動の指導者、板垣退助を紹介します。

板垣退助は天保(てんぽう)8年(1837年)、土佐藩士・乾正成(いぬいまさなり)の長男として現在の高知県高知市に生まれました。

乾家は知行(ちぎょう)300石の上士(じょうし)の家柄でした。

 

藩政から国政へ

文久(ぶんきゅう)2年(1862年)、25歳の時、前藩主で藩の実権を握る山内容堂の側用人(そばようにん)となります。

さらに元治(げんじ)元年(1864年)に大監察(だいかんさつ)に任じられ後藤象二郎と共に藩政の中核を担うようになりますが、自らの意見を藩政に反映させることができず、江戸へ出て騎兵術や西洋兵学を学びました。

慶應(けいおう)3年(1867年)、京都で中岡慎太郎の仲介により薩摩藩の西郷隆盛らと会い倒幕の密約を結びます。

この時期、土佐藩は大政奉還を幕府に建白し穏健な政権交代を目指していましたが、退助はこうした動きに批判的でした。

翌年、鳥羽・伏見の戦により戊辰戦争がはじまると、大隊司令・東山道(とうさんどう)総督府参謀として藩兵を率いて進撃、さらに東北各地に転戦しました。

この頃から、乾姓をあらため板垣姓を称するようになりました。

明治4年(1871年)に明治政府の参議(さんぎ)に任じられますが、明治6年(1873年)、征韓論争に破れて参議を辞職しました。

翌年、同じく参議を辞した江藤新平・後藤象二郎らとともに、愛国公党を組織し民撰議院設立建白書を政府に提出します。

また、高知に立志社を創立し自由民権運動の先頭に立って活動します。

 

自由党の結成

明治14年(1881年)には、10年後の国会開設に向け、自由党を結成し総理となります。

翌年4月、岐阜での遊説中に刺客に襲われた際に、負傷しつつも、「板垣死すとも自由は死せず」と発したと言われます。

しかし、その年の11月に後藤象二郎と共にヨーロッパへの外遊に出かけたことで批判を受けることになり、帰国後、民権運動が激化し政府による弾圧が激しくなる中、明治17年(1884年)に自由党は解党します。

その後、板垣は明治29年(1896年)に第2次伊藤内閣の内務大臣、明治31年(1898年)には、最初の政党内閣と言われる大隈内閣の内務大臣に就いています。

明治33年(1900年)、伊藤博文を総裁とする立憲政友会が結成され、政党の再編が行われる中、板垣は政界から引退し社会事業に尽力する晩年を送りました。

 

板垣家の墓所

大正8年(1919年)に病のため死去、高源院の墓地に葬られました。

高源院は関東大震災後に世田谷区へ移転しましたが、墓所はそのまま残されました。

墓所の最寄り駅は、京浜急行電鉄の「新馬場駅」です。

北口改札口を出て第1京浜国道を渡った小高い丘の上に位置しています。

品川神社参道の階段または坂を登り、社殿の右側から裏手へ回った先にあります。

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板垣退助の墓所

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品川人物伝 第5回は、 児島惟謙(いけん) をお送りします。

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