品川人物伝 第5回

更新日:平成22年8月18日

司法権の独立 児島惟謙

品川歴史散歩案内 品川人物伝 第5回 22.12.1~12.31

司法権の独立 児島 惟謙(いけん)

 

品川人物伝 第5回は、晩年を荏原郡大井村で過ごした、明治時代の大審院長の児島惟謙を紹介します。

 

剣術の腕前

惟謙は天保(てんぽう)8年(1837年)、現在の愛媛県宇和島市に、宇和島藩士・金子惟彬(これあきら)の次男として生まれました。

幼少期は父母の離婚のために一時里子へ出されるなど、決して恵まれた境遇ではありませんでした。

安政2年(1857年)20歳のとき、藩の家老である梶田長門(ながと)に仕え、文武の修業に専念するようになります。

とくに剣術でその才能が認められ、藩内各所から剣道教授として招聘されるようになりました。

その頃、日本国内はペリー来航後の混沌とした政治状況にあり、やがて惟謙も剣道家で納まることができなくなりました。

四国各地や長崎などを遍歴し、他藩の志士との交流を深め次第に国事に奔走するようになります。

 

宇和島藩からの脱藩

慶応3年(1867年)、宇和島藩を脱藩し、翌年に始まった戊辰戦争では倒幕軍に加わりました。

「児島惟謙」の名前は脱藩に際して名乗り、後にそれを本名としたものです。

維新後の明治2年(1869年)、新潟県御用掛(ごようがかり)を拝命し、翌年には、現在の品川区を含む東京南西部から多摩地方などの広い地域を含んでいた品川県の少参事(しょうさんじ)に任命されています。

 

司法官の道と大津事件

その後、明治4年(1871)司法省に出仕するようになり、司法官としての道を歩みます。

名古屋や長崎などで裁判長を歴任した後、明治24年(1891年)、55歳で大審院長となります。

その就任期間は1年3か月あまりでしたが、就任直後の5月11日、日本訪問中のロシア皇太子ニコライが警護に携わっていた巡査に斬りつけられ負傷するという、いわゆる大津事件が起こります。

ロシア帝国の報復をおそれた政府は、日本の皇室に対する犯罪を罰する刑法116条を適用し、犯人を死刑にしようとしました。

惟謙はこの干渉を断固としてはねのけ、一般の謀殺未遂罪により無期懲役の判決を下しました。

大審院長を辞職後は貴族院議員や衆議院議員となり、明治41年(1908年)72歳で亡くなりました。

品川区南品川にあります海晏寺(かいあんじ)に葬られました。

 

児島惟謙と品川

退官後の明治30年代、現在の品川区大井六丁目に邸宅を構え、地元の名士・財界人とも親交を深めました。

現在、大森貝塚碑が建立されているところは、モース博士の発掘調査した地点であり、児島邸の一部に当たっています。

明治41年1月には、品川在住の小説家にして太古遺物の収集家として知られる江見水蔭(えみすいいん)が児島家の許しを得て、発掘を行っています。

江見は、著書『探検実記 地中の秘密』でその経緯を紹介しています。

なお、児島惟謙の墓は、一般には公開されていません。

 

 

 

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大森貝塚碑のあたりにかつての児島惟謙の

邸宅の一部がありました。 

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