品川人物伝 第16回
更新日:平成23年12月1日
明治時代の教育者 福沢諭吉
品川歴史散歩案内 品川人物伝 第16回 平成23年11月1日~11月30日
明治時代の教育者 福沢諭吉
品川人物伝第16回は、品川区上大崎に記念碑が建つ福沢諭吉を紹介します。
生い立ち
福沢諭吉は、天保5年(1834年)12月、九州の中津藩(現在の大分県中津市)の下級武士(下士)であった父福沢百助(ひゃくすけ)と母順の次男として生まれました。
当時、父は大阪の中津藩大阪蔵屋敷(くらやしき)に勤務していたので、諭吉は大阪生まれになります。
ところが、父百助が諭吉1歳の時に急死したため、一家は中津に戻りました。
それからの福沢家の家計は大変でした。
身分制度が厳しい中津藩の武士は、身分が高い上士(じょうし)と低い下士(かし)とで、生まれながらの身分により人生が決まっていました。
下士の子どもである諭吉は、その身分制度の厳しさを、身をもって感じたのです。
「門閥制度(もんばつせいど)は親のかたき」と後々いったように、反発心を持ち続けていました。
勉強好きから教育者へ
その一方、諭吉は成長するにともない父親譲りの勉強好きになり、漢学を学ぶため塾に行き始めました。
それから数年後のある日、兄三之助(さんのすけ)の一言をきっかけに、今度は長崎で蘭学を勉強することになります。
19歳の時でした。
その後、大阪で緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾(てきじゅく)という蘭学塾に通うことになり、着実に知識を増やしていきます。
安政4年(1857年)に、適塾の塾頭になり、翌年には江戸の鉄砲洲(てっぽうず)にある中津藩江戸屋敷で蘭学塾を開きました。
これが慶応義塾の起こりで、教育者としての道を歩んでいくことになります。
独学で英語も身に付けた諭吉は、安政6年、勝海舟率いる咸臨丸に乗ってアメリカに渡る機会を得ました。
外国では、その政治や思想に興味をもち、研究・吸収し、さらに知識の幅を広げました。
学問のすゝめ
文久元年(1861年)には、中津藩上士土岐家(ときけ)の錦(きん)と結婚し、後に、4男5女をもうけています。
明治4年、諭吉は新銭座(しんせんざ)に移していた慶応義塾を最終的に三田におきました。
ここは現在、慶應義塾大学の三田キャンパスです。
その翌年の明治5年(1872年)には、『学問のすゝめ』を出版。
これは外国の自由主義等の思想にもとづいたものです。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉は有名です。
売り上げ総数の延べからすると、当時としてはかなりの人が持っていたことになる、今で言うベストセラーです。
その後も多方面にも人脈を広げ、活躍の場を増やしました。
そして、20世紀を迎えた明治34年(1901年)2月、福沢諭吉は、68歳でその生涯を終えます。
生前、上大崎周辺を愛した諭吉の希望によって、当初墓所はこの地につくられましたが、昭和52年に菩提寺である港区元麻布の善福寺(ぜんぷくじ)に移葬されました。
上大崎の墓地跡には、『福沢諭吉先生永眠之地』の記念碑が建っています。
また、諭吉の出身地、中津藩奥平家の墓所も4代目藩主から同じ品川区内の清光院にあります。
当初少人数であった慶応義塾も、今では3万人以上の塾生をかかえる代表的な私立大学に発展しています。
福沢諭吉の偉業は、多くの関係者たちによって、これからも語り継がれていくことでしょう。
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福沢諭吉永眠の地碑
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