品川人物伝 第18回

更新日:平成24年2月1日

女子教育のパイオニア 津田梅子

品川歴史散歩案内 品川人物伝 第18回 平成24年1月1日~1月31日

女子教育のパイオニア 津田梅子

 

品川人物伝第18回は、品川区北品川の御殿山に邸宅を構えていた津田梅子を紹介します。

 

日本で最初の女子留学生 

梅子は、元冶元年(1864年)12月、父津田仙と母初子の次女として江戸牛込南町で生まれました。

幼名はむめ、といいました。

下総国佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)から江戸に出て蘭学塾や英語塾で学んだ父仙は、梅子が生まれた時、幕府外国奉行の通弁を務めていました。

洋学を志した開明的な父親の存在が、梅子の一生に大きな影響を与えることとなります。

北海道開拓使が女子留学生の募集を行うと、開拓使の嘱託となっていた父は梅子の留学を願い出ました。

明治4年(1871年)、梅子は北海道開拓使の女子留学生の一員として、7歳で渡米します。

日本で最初の女子留学生であり、留学生5名の中で最年少でした。

アメリカに到着した梅子はワシントン郊外のジョージタウンに住むチャールズ・ランメン宅に引き取られます。

子どもがなかったランメン夫妻は、落ち着いた雰囲気の中で梅子を大切に育てます。

7歳から18歳の多感な時期をランメン夫妻の元で過ごした梅子にとって、この二人は第二の父母と言える存在となりました。

 

帰国後の生活 

明治15年(1882年)、梅子は長い留学生活を終えて帰国しますが、日本語を忘れてしまい家族に言葉をかけることもできなくなっていました。

また、当時の日本では、まだ女性の梅子が留学で身につけた知識を活かせるような職業もありませんでした。

青山学院大学の前身である海岸女学校で英語を教えることになりますが、2か月ほどで辞めてしまいます。

その後、舞踏会で再会した伊藤博文の仲介で、下田歌子が主宰する桃夭(とうよう)女塾の英語教師になります。

明治18年(1885年)、華族女学校が開校し歌子が教授に就任すると、梅子も教授補として英語を担当、翌年には教授となっています。

しかし、上流家庭の子女教育を行う華族女学校での仕事は、梅子の教育者としての心を満たすことはできませんでした。

 

女子英学塾の設立 

苦悩を抱えた梅子に転機が訪れます。

再びアメリカへの留学を決心し、明治22年(1889年)、在官のまま2年の予定で、ブリンマーカレッジに入学したことです。

この留学経験は、梅子にとって、日本人女性の置かれた状況を考える機会ともなり、日本の女子教育のために尽くす決意をさせることとなりました。

明治33年(1900年)、36歳の時に華族女学校を退職、現在の津田塾大学の前身である「女子英学塾」を設立し ました。

麹町の小さな家を借り、生徒10人のスタートでしたが、明治36年(1903年)に専門学校令が公布されると、翌年にはその認可を受け、さらに英語科教員の無試験検定の取り扱いも明治38年に許可されました。

塾の基礎は定まり運営は軌道に乗ります。

 

晩年

こうした中、50代になって梅子の健康状態が悪化、糖尿病と診断され入退院を繰り返すようになります。

大正8年(1919年)、親戚一同が梅子の為に建てた北品川御殿山の新居に移り、療養をしながら晩年の10年を、この地で過ごしました。

昭和4年(1929年)、療養先の鎌倉の別荘にて逝去。

その後、女子英学塾は津田英学塾と改称し、梅子の功績をたたえました。

 

jinbutsu18 

邸宅のあった原美術館周辺 

 

次回のお知らせ

品川人物伝 第19回 賀茂真淵 をお送りします。

 

 

お問い合わせ

庶務課文化財係
電話:03-5742-6839(直)
FAX:03-5742-6890