品川人物伝 第19回

更新日:平成24年3月1日

江戸の国文学者 賀茂真淵

品川歴史散歩案内 品川人物伝 第19回 24年2月1日~2月29日

江戸の国文学者 賀茂真淵(かものまぶち)

 

品川人物伝第19回は、品川区北品川にある東海寺大山墓地に眠る賀茂真淵を紹介します。

賀茂真淵は、元禄10年(1697年)3月、遠江国敷智郡(とおとうみのくにふちぐん)浜松庄伊場村(はままつしょういばむら)(現在の静岡県浜松市中区東伊場(なかくひがしいば))に岡部政信(おかべまさのぶ)の三男として生まれました。

生家の岡部家は代々、地元の賀茂神社の神職を務める名家で、真淵の家はその分家筋にあたりました。

11歳の頃から手習いをはじめ、国学や和歌に親しんだ真淵は、浜松の近くで開催される歌会にも参加するようになります。

 

歌会での運命的な出会い 

そして、26歳の時、歌会で運命的な出会いがありました。

荷田春満(かだのあずままろ)と出会ったのです。春満は後に真淵の国学の師となり、大きな影響を与えた人物です。

真淵は30歳を過ぎた頃から、時折上京しては伏見の春満の下で学ぶようになり、37歳の時に京都に腰を落ち着 けて古典や古語の研究をはじめます。

 

江戸での生活 

元文元年(1736年)、春満が没すると、翌年、41歳の真淵は春満の弟信名(のぶな)を頼り、江戸に出て国学の道を広める決心をしました。

江戸では、湯島の信名宅に落ち着き、信名と春満の養子在満とともに生活をはじめます。

その後、寛保元年(1741年)、北八丁堀に初めて一家を構えます。

翌年茅場町に移りますが、この頃には、武士、儒者、僧侶、町人など多くの人が真淵の門に入門しています。

その教えを受けたものは、300人以上にのぼり、そのなかでも「県門の四天王」と言われた橘千蔭(たちばなちかげ)、村田春海(むらたはるみ)、加藤美樹(かとううまき)、楫取魚彦(かとりなひこ)や、『群書類従』を編纂した塙保己一、真淵の後を継ぎ国学を完成させた本居宣長(もとおりのりなが)が有名で、エレキテルで知られる平賀源内も門人録に名を連ねています。

また、江戸の生活にも馴染んだ真淵は、当時活躍していた青木昆陽など江戸の文人とも交流を深めました。

延享3年(1746年)、50歳の時に8代将軍徳川吉宗の次男で、国学や和歌などに造詣が深かった田安宗武(たやすむねたけ)に召し抱えられ田安家の和学御用(わがくごよう)を勤めるようになり、国学の研究や著述に打ち込みます。

 

著作の数々 

64歳で隠居し、明和6年(1769年)10月、73歳でこの世を去りましたが、その間、多くの著作を残しています。

殊に、古典研究では日本最古の歌集『万葉集』を重視し、和歌においては『古今和歌集』以来の技巧的な歌風に 対して、古代の素朴でおおらかな調べを特色とする万葉調の歌風を尊びました。

『万葉集』を研究した『万葉解(まんようかい)』、『万葉考(まんようこう)』は真淵の代表的な著書です。

真淵は荷田春満、本居宣長、平田篤胤(ひらたあつたね)とともに、国学の四大人(しうし)と呼ばれています。

 

国指定史跡になっている墓所 

没後、遺言により東海寺塔頭(たっちゅう)少林院(しょうりんいん)の山上(現在の東海寺大山墓地)に葬られました。

東海寺は沢庵和尚が開山した臨済宗の寺で、墓所は、明治時代に現在の位置に移されていますが、大正15年(1926年)に国指定の史跡となっています。

墓前には、門下生である橘千蔭の撰文の碑などがあります。

 

 

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東海寺大山墓地にある墓所

 

次回のお知らせ

次回は、品川人物伝 第20回 長谷川 伸(はせがわしん) をお送りします。

 

 

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