品川人物伝 第20回

更新日:平成24年3月27日

数々の大衆小説や戯曲の名作を残した作家 長谷川伸(はせがわしん)

品川歴史散歩案内 品川人物伝 第20回 平成24年3月1日~3月31日

数々の大衆小説や戯曲の名作を残した作家 長谷川伸(はせがわしん)

 

品川人物伝第20回は、品川区上大崎にある高福院に眠る長谷川伸を紹介します。

生母との別れ 

長谷川伸(本名・伸二郎)は明治17年(1884年)3月15日、横浜で土木請負業を営む父、寅之助と母、かうの次男として生まれました。

4歳の時に、父の放蕩がもとで父母が離婚し、母と生き別れとなります。

やがて家業が倒産、一家は離散してしまいます。

9歳の時、行き場の無くなった伸は品川の二日五日市村(ふつかいつかいちむら)(現在の南品川5丁目付近)で、住み込みで働く祖母の元に引き取られました。

そして、城南小学校の3年生に編入しました。

この頃の体験が自伝随筆『新コ半代記(しんこはんだいき)』に描かれています。

しかし、生活が苦しく自ら働かなければならなかった伸は、わずか半年程で城南小学校を退学し、働くようになります。

土木工事の現場やドックなどで、様々な仕事を経験しました。

そうした中でも、伸は読み捨てられた新聞を拾って、漢字を覚えるなど、独学で勉強を続けます。

明治31年(1898年)頃には、品川の陣屋横丁(じんやよこちょう) (北品川2丁目付近)の仕出し屋で出前持ちとして働いていたことがあり、この体験が後の戯曲『一本刀土俵入(いっぽんがたなどひょういり)』を生み出すきっかけになったと言われています。

 

新聞記者から作家へ 

明治37年に、横浜の英字新聞、ジャパンガゼット社の臨時雇いの記者に採用されますが、翌年、千葉、習志野砲兵連隊(ならしのほうへいれんたい)に3年間入営(にゅうえい)します。

除隊後、ジャパンガゼット社等を経て、明治44年には、都(みやこ)新聞(現在の東京新聞)の演芸欄の担当記者になり、これを機に住まいを品川の北品川2丁目付近に移しました。

大正7年、記者仲間の紹介で知り合った松田まさえと、様々な障害を乗り越えて結婚、むつまじい結婚生活を送り ます。

大正10年、自宅を大崎町下大崎(現在の東五反田1丁目付近)に移しています。

大正12年に文芸雑誌「新小説」に発表した短編小説『夜もすがら検校(けんぎょう)』が出世作で、菊地寛に認められ、本格的に執筆活動をするようになります。

大正15年には都新聞を退社し、作家として専念するようになりましたが、そのわずか3ヵ月後、妻まさえは病気の ため亡くなってしまいます。

数え41歳の若さでした。

大きなショックを受けた伸ですが、妻の死を乗り越え、昭和3年に戯曲の名作『沓掛時次郎(くつかけときじろう)』を発表、昭和5年には『瞼(まぶた)の母』、翌年『一本刀土俵入』などの戯曲を次々と発表しました。

 

 生母との再会と多くの門下生 

また、昭和8年には、幼い頃に別れ別れとなった生母と再会を果たしました。

戦後の昭和31年には、戦前から資料収集・執筆を続けていた『日本捕虜志(にほんほりょし)』で、第4回菊池寛賞を受賞、さらに昭和37年には「長谷川伸戯曲全集」に対して朝日文化賞が贈られました。

また、伸は大衆文芸や演劇に関する研究会を主宰し、後進の育成にも力を注ぎました。

その門下からは、山岡荘八(やまおかそうはち)、戸川幸夫(とがわゆきお)、平岩弓枝(ひらいわゆみえ)、池波正太郎(いけなみしょうたろう)など、多くの作家が育っています。

昭和38年、長谷川伸は79年で生涯を閉じました。

 

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上大崎の高福院にある墓所

 

 

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