品川人物伝 第23回

更新日:平成24年4月11日

時代小説家・食の研究家 本山荻舟(もとやまてきしゅう)

品川歴史散歩案内 品川人物伝  第23回  6月1日~6月30日


時代小説家・食の研究家 本山荻舟(もとやまてきしゅう)


品川人物伝 第23回は、品川区南品川の天妙国寺(てんみょうこくじ)に眠る本山荻舟を紹介します。

 

生い立ち 


本山荻舟は本名を仲造(なかぞう)といい、明治14年(1881)、岡山県児島郡藤戸町(ふじとちょう)天城(あまき)に生まれました。


幼い頃、父母が離別し、母の手ひとつで育てられました。


天城尋常高等小学校を卒業すると、しばらく役場の給仕として勤務しましたが、明治29年、16歳の時に岡山市に出て電信技術を習い、岡山郵便局の通信書記補などを2年余務めました。

 

物書きとしての道 


幼い頃から文章を書くことが好きだった荻舟は、この頃から短歌や俳句、小説などを雑誌に投稿しています。


明治32年、与謝野鉄幹(よさのてっかん)が東京新詩社を組織し、翌年、雑誌「明星」が創刊されると、その同人となります。


明治33年、岡山の山陽新報社に入社、33年に及ぶ新聞記者生活の一歩を踏み出しました。


その後、中国民報社を経て、明治42年、29歳で上京し、二六新報社に入社、翌年から「二六新報」に小説『雪女』の連載を開始しています。


当時は、作家の多くが新聞社に籍を置いていました。


原稿料より月給制のほうが、安定した執筆環境であったからです。

 

料理への興味 


大正元年(1912)、荻舟は報知新聞社に移り、社会部・連絡部の記者として劇評や料理記事を担当します。


料理記事を担当したことから、荻舟は食への関心を深めていくようになりました。


翌年には、15歳年下の石田みつと結婚、一人娘をもうけています。


大正6年、『「名人畸人(めいじんきじん)』の執筆を開始、この頃から、歴史ものを多く発表するようになります。


荻舟は、文献をもとに史実に忠実な時代小説を書くよう努め、その著作は他の作家にも影響を与えました。


大正14年、白井喬二(しらいきょうじ)、直木三十五(なおきさんじゅうご)、長谷川伸、江戸川乱歩等と共に「二十一日会」を結成、翌年の月刊同人誌「大衆文芸」の発刊に参加しています。


また、食への関心が高じた荻舟は、昭和3年(1929)、最高の食材を使用した家庭料理を安く提供する事を理想として、京橋河畔(かはん)に小料理屋「つたや」を開業。


経営は常に赤字でしたが、記者としての給料をつぎ込み10年間続けました。


昭和13年、食糧事情の悪化もあり廃業しています。

 

品川区へ 


昭和15年、京橋の店も自宅も引き払い、家族とともに品川区南品川の天妙国寺境内に転居。


荻舟はこの地の風景や人情を愛し、地元の人々とも交流を深めました。


昭和23年、東品川の寄木神社境内に建立された『江戸漁業根元之碑(えどぎょぎょうこんげんのひ)』の撰文(せんぶん)は荻舟の手によるものです。


戦後は料理研究に没頭、『飲食系図』(昭和23年)、『荻舟食談』(昭和28年)、『飲食日本史』(昭和31年)、などの著作を残しています。


昭和33年10月19日、風邪による衰弱のため、天妙国寺境内の寓居(ぐうきょ)にて死去しました。


編集中だった労作『飲食辞典』は遺族の手によって刊行され、地元猟師町の普段の食事だった「品川飯」や「品川汁」も取り上げられています。  

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天妙国寺内にある墓地 

 

 

 

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次回は、品川人物伝 第24回 吉川英治(よしかわえいじ) をお送りします。

 

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