品川人物伝 第24回

更新日:2013年4月4日

時代小説家 吉川英治(よしかわえいじ) その1

品川歴史散歩案内 品川人物伝  第24回  7月1日~7月31日


時代小説家 吉川英治(よしかわえいじ) その1


品川人物伝 第24回は、品川区北品川の御殿山に居住していた時代小説家、吉川英治を紹介します。


少年時代


吉川英治は明治25年(1892)、吉川直広(なおひろ)とイクの長男として、神奈川県久良岐郡(くらきぐん)中村根岸(なかむらねぎし)(横浜市中区)に生まれました。


英治の少年時代、父は横浜の桟橋会社の共同経営に参加、事業は成功し家計は豊なものでした。

6歳になった英治は、横浜市内の私立山内尋常高等小学校に入学、教育熱心な父親の考えで、2年生になると毎日放課後には英語の特別授業を受け、さらに週2回、漢学の塾にも通っていました。

また、この頃から文芸への関心を深め、友人と共に謄写版(とうしゃばん)の雑誌を作っています。

しかし、こうした暮らしを一変させる事件が起こります。

明治36年、父親が会社経営を巡って共同経営者に訴訟を起こし、敗訴してしまいます。

一家の暮らしは坂道を転げ落ちるように悪化し、11歳の英治は、突然父親から学校をやめて働くよう命じられ、印章店(いんしょうてん)に住み込みで働くようになります。

以後、印刷所の少年工や横浜税務監督局の給仕(きゅうじ)等、様々な職を転々としていきます。

18歳の時、横浜ドックの船具工として働いていましたが、ドックでの作業中に転落し、重傷を負います。

これを機に、苦学することを決意し上京しますが、勉学の夢はかなわず、ラセン釘工場の工員等を経て、浅草に住む蒔絵師(まきえし)の徒弟となります。

そして、大正2年(1913)、21歳で漆器の下絵職人として独立します。

  

もの書きとして

こうした境遇の中でも、英治の文芸への関心は衰えることなく、川柳の投稿や研究に熱中。

また、大正3年には、「講談倶楽部」の懸賞小説に短編小説『江の島物語』を応募し、1等に入選しています。

その後、漆器の輸出不振のため仕事を失い、大正9年、仕事を求めて中国の大連(だいれん)に渡ります。

結局、そこでの商売もうまくいかないまま、翌年、母の急病の報せ(しらせ)を受けて帰国しますが、大連滞在中に講談社の懸賞小説に3編を応募、その全てが入選を果たしています。

懸賞金は、帰国後間もなくして亡くなった母親の葬儀費に充てられました。

この年の暮れ、英治は東京毎夕(まいゆう)新聞社に入社。

翌年、社命により、初めて新聞小説『親鸞記(しんらんき)』を執筆、161回にわたって連載されました。

新聞記者としての道を歩み始めた英治でしたが、すぐに大きな転機が訪れます。

大正12年9月1日に発生した関東大震災で、東京毎夕新聞社が廃墟となり解散となります。

  

文筆業に専念

たちまち生活に困った英治でしたが、講談社の雑誌に度々入選していたことから、同社の編集長らの励ましを受け、文学に専念することを決意します。

その年の暮れから、信州の角間(かくま)温泉にこもり小説を執筆し、原稿を書き上げては講談社へ送りました。

講談社の雑誌から18ものペンネームを使用して、多数の小説を発表、文筆で生きて行くことに自信を持ち、小説家としてのスタートをきりました。

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旧吉川英治邸(品川区北品川)

 

 

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