品川人物伝 第27回

更新日:平成24年4月11日

「五ヵ条の誓文」草案作成者 由利公正

品川歴史散歩案内 品川人物伝  第27回 10月1日~10月31日


「五ヵ条の誓文」草案作成者 由利公正(きみまさ)(こうせい)

品川人物伝 第27回は、品川区南品川の海晏寺(かいあんじ)に眠る由利公正を紹介します。

由利公正は、文政12年(1829)10月11日、福井藩士三岡義知(みつおかよしとも)の嫡男として、越前国福井城下に生まれました。

通称は石五郎(後に八郎)、明治維新後に由利公正と名乗ります。

 

横井小楠との出会い 

若き日の公正は剣や槍、西洋砲術などの武術に熱中しますが、熊本藩士の横井小楠(しょうなん)との出会いが公正を新たな道へと開眼させます。

嘉永4年(1851)、23歳の時に、幕末の有識者に大きな思想的影響を及ぼした小楠が、福井藩に来遊しました。

公正はその講義を聴き感銘を受け、以後、強い影響を受けていきます。

嘉永6年6月、父義和が逝去したため、公正は家督を相続、折しも同じ月、ペリーが浦賀に来航します。

公正は、藩命による砲術調練修業のため、初めて江戸に出ます。

一旦帰藩しますが、翌安政元年(1854)正月には、品川御殿山の警備を命ぜられています。

その後、安政4年には兵器御製造所頭取となり、福井藩の藩政改革の中心であった橋本左内(さない)と共に、兵制の改革に尽くします。

こうした中、安政5年7月、改革の後ろ盾であった藩主松平慶永(春嶽)が安政の大獄により隠居謹慎を命ぜられます。

慶永の謹慎中、公正は殖産興業政策の推進や、藩財政の整理などの藩財政改革の面で活躍しています。  

文久2年、慶永の謹慎が解け、幕政のトップである政事総裁職に就任すると、公正も慶永の意を受けて、政治の分野でも活動を始めます。

しかし、翌年、公正らの改革派が進めた藩兵4000人を率いて上洛する計画が、藩内の慎重派の反対に合い中止となると、公正は蟄居を命じられ失脚します。

蟄居は4年4カ月に及びます。

長い謹慎生活を続ける公正に転機が訪れたのは、慶応3年11月です。

謹慎中の公正を土佐藩の坂本龍馬が訪れます。

既に面識があり公正を高く評価していた龍馬と、新政府の取るべき経済政策等について、語り合いました。

その10日後、坂本龍馬は京都で暗殺されますが、生前龍馬が推薦していたこともあり、公正は新政府の参与に任命され、財政面を担当することになりました。

 

明治政府での活躍

明治政府の中で、太政官札(だじょうかんさつ)を発行するなど初期の財政政策を立案したほか、明治4年7月には、東京府知事に就任、大火を教訓に東京銀座市街の道路を拡張する区画整備など首都行政にも力を注ぎました。

明治政府の基本方針を明らかにした「五ヵ条の誓文」の草案を作成したことでも名を残しています。

その後、公正は元老院議官、貴族院議員を歴任し、明治27年には、有隣生命保険会社を興すなど、新規事業にも参画しました。

明治42年4月28日、公正は81歳で逝去、南品川5丁目の海晏寺後丘に葬られました。

近くには、主君の松平慶永や、公正を明治政府の財政方の責任者に任命した岩倉具視の墓地があります。(なお、墓所は公開されていません。)

 

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由利公正の墓

 

 

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