品川人物伝 第31回

更新日:平成25年3月1日

演劇評論家で直木賞作家 戸板康二(といたやすじ)

品川歴史散歩案内 品川人物伝  第31回 2月1日~2月28日


演劇評論家で直木賞作家 戸板康二(といたやすじ)


品川人物伝 第31回は、品川区荏原7丁目に自宅を構え、50年余りを過ごした戸板康二を紹介します。


戸板康二は、父山口三郎、母ひさの長男として、大正4年(1915)に東京市芝区三田(現在の港区芝)に生まれました。


はじめ「康夫」と命名されましたが、8歳のときに「康二」に改名されています。

また、母ひさの祖母は戸板裁縫女学校(現、戸板学園)の創始者戸板関子(せきこ)で、戸板家に男子がいなかったため、誕生後間もない康二は大正6年に、養子として入籍しています。

その後、康二はカトリック系の暁星(ぎょうせい)小学校から暁星中学校を経て、昭和7年(1932)に慶応義塾大学予科に入学しました。

幼少の頃から、芝居好きの父親の影響で歌舞伎や芝居に親しみ、その他にも宝塚歌劇や新劇などを熱心に観賞する青年時代を送っています。

大学では国文科に進み、民俗学者・国文学者として多くの業績を残した折口信夫(おりくちしのぶ)に師事しています。

戦中・戦後の折口の話を記録し『折口信夫坐談』として昭和47年に発表しています。

 

社会に出てからの経験

ところで、大学を卒業した康二ですが、昭和14年に製菓会社の宣伝部でPR誌の編集に携わり、多くの文人や画家などの文化人と交流するようになります。

しかし、昭和16年に太平洋戦争が開戦、砂糖などの物資不足から会社の経営が厳しくなり、昭和18にはPR誌が休刊となり退社します。

その後、師である折口信夫の紹介で1年程、女学校の国語教師を勤めました。

昭和19年に、小説家・劇作家として活躍する久保田万太郎が社長を務める日本演劇社に招かれて、入社します。

康二は慶応義塾大学院時代に、久保田万太郎と既に面識があり、父三郎は慶応義塾普通部で万太郎と同級生でした。

日本演劇社で、康二は新劇の研究誌「日本演劇」の編集長を任され、演劇の現場へと足を踏み入れることとなります。

昭和20年に終戦を向かえると、康二は多くの演劇雑誌に執筆の機会を得て、演劇評論家として活動の場を広げていきます。

昭和23年『わが歌舞伎』と翌年『丸本(まるほん)歌舞伎』を執筆し、戸川秋骨(とがわしゅうこつ)賞を受賞。

昭和25年に日本演劇社の倒産に伴い、退社し独立すると、『歌舞伎への招待』を執筆、同書はロングセラーとなりました。

 

推理小説作家デビュー

演劇評論家の第一人者としての地位を築いた康二ですが、昭和33年には、江戸川乱歩の勧めで推理小説『車引(くるまびき)殺人事件』を乱歩編集の雑誌「宝石」に発表し、推理小説作家としてデビューを果たします。

77歳の老歌舞伎俳優、中村雅楽(がらく)が歌舞伎「車引」の上演中に舞台上でおきた殺人事件を、明晰な推理で解決します。

同じく雅楽を主人公に執筆した『團十郎切腹事件』で、昭和35年、第42回直木賞を受賞しました。

推理小説の分野以外にも、俳句や随筆など幅広い分野で康二は旺盛な執筆を続けました。

晩年のエッセイ集『ちょっといい話』は有名・無名の人物のこぼれ話やエピソードを紹介し、ベストセラーとなり、逝去直前まで書き続けられました。

昭和52年に、第33回日本芸術院賞文芸部門を受賞。

平成3年には、日本芸術院会員になりました。

平成5年1月23日、77歳で急逝、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山総持寺(そうじじ)に葬られました。

 

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