品川人物伝 第34回

更新日:平成25年6月1日

日本服飾界の先導者 杉野芳子

品川歴史散歩案内 品川人物伝 第34回 5月1日~5月31日


日本服飾界の先導者 杉野芳子


品川人物伝 第34回は、品川区上大崎に服飾学校を設立した杉野芳子を紹介します。

芳子は、明治25年(1892)、千葉県匝嵯郡(そうさぐん)に生まれました。

2歳の頃、婿養子だった父親が離縁されたため、母親の実家で育ちます。

芳子はまだ入学年齢に満たないのに、年上の子どもたちについて尋常小学校に通うほど活発な子どもでした。

その頃かわいがってもらった教師に背負われて、よく丘から海を眺めていました。

太平洋の向こうにあるアメリカの存在を聞き、幼心にも漠然と興味を抱いた芳子でした。

また、高等小学校時には、自分で器用に人形を作ったり、女子では珍しく袴を欲しがったりと後の活躍につながる関心も芽生えてきたようです。

千葉高等女学校卒業後は、鉄道省に就職。

 

憧れのアメリカへ

鉄道省の後に3年間小学校教師として働いていた時、ついにそのチャンスがやってきました。

大正2年、念願叶ってアメリカへ単身で渡ることになったのです。

芳子の目は、幼い頃よりずっと憧れてきたアメリカを向いていました。

西海岸に着いた芳子はニューヨークを目指します。

初めて目にした洋装は衝撃的で、スカート履きのアメリカ女性の中では、芳子の袴姿は異質でした。

しかし日本人体型に合う既製服もなく、オーダー服は高価です。

そこで、芳子は洋裁を習うことにしました。

自分の服を作るためです。

 

繁一との出会い

ある日、自分で作ったドレスを着た芳子は、日本人クラブのクリスマスパーティーで日本人建築家杉野繁一(しげいち)と出会います。

お互い惹かれあった二人は、1年後に結婚。

結婚から3年ほど経った大正9年、ファーグソン建築会社の東京支社に勤めることになった繁一に伴い、帰国しました。

当初は主婦業に専念していた芳子ですが、かつてアメリカで腕を磨いた洋裁への思いが、次第に蘇ってきます。

日本女性に洋装を楽しんでほしいという思いが日々募っていたのです。

なかなか首を縦に振らない夫をやっとのことで説得し、洋裁塾を開くことになりました。

洋装を広めるには、まず作り手が必要だからです。

 

ドレスメーカー・スクールの誕生

大正15年(1926)、34歳の芳子は、現在の西新橋にドレスメーカー・スクールを開校しました。

同年11月には、品川区上大崎に移し、ドレスメーカー女学院とします。

それからの芳子は、教師として経営者として苦労の連続でした。

その後、理事長に迎えられた夫の繁一が、芳子の大きな支えとなり守(も)り立てていきます。

創立10周年を記念して、昭和10年には日比谷公会堂でファッションショーを開催しました。

これは日本人の手による日本初のショーで、大成功でした。

40代半ばになっても芳子は、勉強のため1人で欧米に渡るほど非常に仕事に熱心でした。

戦後もますます入学希望者は増え、昭和26年には杉野学園として学校法人になります。

芳子は、和装が主流だった時代に、洋装という新しい流れを作り、大きな功績を残しました。

そして、服飾界に多くの人材を送り出してきたのです。

昭和53年(1978)、芳子はこの世を去りました。

JR 目黒駅付近から杉野学園の校舎へ向かう道はドレスメーカー学院の名から、『ドレメ通り』と呼ばれています。

また、杉野学園衣裳博物館には、杉野夫婦が収集した西洋衣装の変遷や、日本の十二単(じゅうにひとえ)をはじめ海外諸国の民族衣装が展示されています。

 

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次回は、品川人物伝 第35回  伊東 深水(しんすい) をお送りします。 

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