品川人物伝 第35回

更新日:平成25年7月1日

近代日本美人画の大家 伊東深水

品川歴史散歩案内 品川人物伝 第35回 6月1日~6月30日


近代日本美人画の大家 伊東深水


品川人物伝 第35回は、品川区上大崎の隆崇院に眠る伊東深水を紹介します。

深水(本名、一(はじめ))は明治31年(1898)、東京市深川区西森下町(現・江東区森下)に生まれました。

間もなく、伊東半三郎(はんざぶろう)・まさ夫妻の養子となり、幼少期は家庭も裕福で、深水は夫妻に可愛がられ大切に育てられました。

ところが、小学校に入学した頃から、父親が道楽に走り失業。

一時は、一家離散するほどの困窮した暮らしとなります。

明治40年(1907)、9歳の深水は小学校を2年で中退し、看板屋の小僧として働きはじめます。

翌年には、東京印刷株式会社の深川分工場で活字工の職に就きます。

そこで、水彩画家・丸山晩霞(ばんか)の弟子で図版部にいた吉川恭平に出会ったことから、水彩画を習い始めることとなりました。

 

「深水」に

明治44年(1911)、本社の図案部研究生となった深水は、日本画に興味を持つようになり、鏑木清方(かぶらききよかた)と同門だった図案部部長の秋田桂太郎に紹介を頼んで、清方に入門、「深水」という号を与えられました。

深水13歳の時です。

師の清方は、深水に特段の配慮を示しています。

深水が小学校中退と知ると、これからの芸術家には、技巧だけではなく人格修養が重要であると、夜学に通うことを勧め、月謝を免除してくれました。

深水も師の恩に応え、寝る間を惜しんで仕事と学業、絵の修行に励み、毎週日曜日には自分の作品を携え、清方の元に通い続けました。

 

数々の作品

入門翌年には、桜の木の下で荷馬車を止めて休む青年と二人の幼児を描いた作品『のどか』が第十二回巽画会(たつみがかい)展で初入選、またその翌年には『無花果のかげ』が入賞しました。

さらに再興日本美術院第一回展、第九回文部省美術展覧会と毎年のように受賞が続き、大正5年に『乳しぼる家』が第三回院展に入選しました。

また、この頃から、本格的な木版画の普及を目指す新版画運動に参加し、木版画の作品も残しています。

大正8年、深水は2歳年上の永井好子(よしこ)を妻に迎え、東京府荏原郡大井町南浜川(現在の品川区南大井)に居を構えます。

この地で、妻がモデルの代表作『指』をはじめ、多くを制作しています。

昭和2年(1927)には、自宅に「深水画塾」を設立。

塾生が次第に増え、深水自身も展覧会に追われるようになったため、昭和5年に池上本門寺(大田区池上)の麓に大きな画室を新築し、翌年には住まいも移しました。

美人画で名を馳せた深水は、自らの使命は女性を描いてその時代の風俗を後世に伝えることだと感じていました。

しかし、30代後半からは、美人画から脱却を図り、肖像画のほか花鳥や風景画の制作も試み、多くの作品を残しています。

晩年になっても意欲的に制作し続けましたが、昭和47年に膀胱ガンのため亡くなりました。

師、鏑木清方の死去からわずか2ヶ月後のことでした。

深水が眠る上大崎の隆崇院本堂の天井には、中央に深水の『牡丹唐獅子図(ぼたんからじしず)』、周囲に深水一門によって花の絵が描かれています。

 

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