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近世の品川

   天正18年(1590)、後北条氏が滅び、徳川家康が江戸に入りました。以後幕末まで品川区域は徳川氏が支配します。品川の宿は東海道第一番目の宿場として栄え、農村部は江戸に野菜などを供給する近郊農村となりました。また海岸部は、江戸内湾の魚介類を獲ったり、海苔を養殖する漁村となりました。

東海道品川宿

  品川宿は東海道第一番目の宿場として整備され、参勤交代の大名や旅人、朝鮮通信使など多くの人々が行き交う場所でした。
  一方で宿場には多くの飯売旅籠屋が立ち並び、「北の吉原 南の品川」と並び称されるように、遊興のまちとしての側面もありました。
  また、品川宿周辺には御殿山の桜、海晏寺の紅葉、品川沖の潮干狩りなどの行楽地があり、その様子は浮世絵に多く残されています。

画 - 東海道五拾三次之内品川

東海道五拾三次之内
品川 日之出
歌川広重(初代)画
天保4年(1833)頃


農業

  近世の品川は東海道品川宿や猟師町を除く大半が農村でしたが、目黒川・立会川流域の平坦地以外は大部分が台地であり、干ばつに悩まされていました。
  しかし寛文4年(1664)に三田用水が、寛文9年(1699)に品川用水が整備されると耕地が広がり、居留木橋南瓜、戸越の筍、大井の人参、品川蕪といった江戸野菜(江戸近郊で栽培されていた在来種の野菜)が多く栽培されました。

品川用水模型の写真
品川用水模型
いまの区内小山2丁目にあった
「地蔵の辻」付近の模型です。
たけのこ掘りの道具 ヘラ(左)とノミ(右)の写真
たけのこ掘りの道具 ヘラ(左)とノミ(右)
土をヘラで掘り、たけのこを根から切り離す時にノミを使いました。


漁業

  江戸内湾で本格的な漁業が行われたのは江戸時代以降のことです。品川区域には南品川猟師町(品川浦)と大井御林猟師町(大井御林浦)の2つの純漁村ができ、江戸城に魚を納める「御菜肴八ヶ浦」として発展しました。
 また18世紀はじめには海苔の養殖が始まりました。品川で作られた海苔は浅草の海苔問屋に運ばれ、「江戸名産浅草海苔」として全国に知られました。海苔ひび(海苔を育てるために海中に立てる木の枝)が海に立ち並ぶ様子は、浮世絵の題材としても取り上げられています。

桁船(けたぶね)模型の写真

桁船(けたぶね)模型



幕末の品川

  嘉永6年(1853)6月にアメリカのペリーが江戸湾浦賀に来航したことを機に、幕府は新たな江戸湾防備の拠点として西洋式の海上砲台・品川御台場を築造しました。また、安政5年(1858)のアメリカをはじめとする諸外国との修好通商条約締結を機に幕府が派遣した、安政7年の遣米使節団と文久元年(1861)の遣欧使節団の発着地は品川沖でした。
  その後、攘夷派浪士による品川御殿山英国公使館の焼き討ち事件、慶応2年(1866)の品川宿での打ちこわしなどが起こり、品川は幕末動乱の舞台となりました。