権之助坂

更新日:平成31年2月28日

場    所 上大崎2-13付近
名称の由来   江戸中期、中目黒・田道にいた名主・菅沼権之助が村人のために年貢の取立てを緩めてもらおうと訴え出たため、罪に問われて死罪となってしまいました。刑に処せられる権之助は、当時「新坂」と呼ばれていたこの坂の上から我が家を振り返り、刑場に引かれていったそうです。村に尽くした功績をたたえて、この坂を「権之助坂」を呼ぶようになったと云われています。
  また一説では、当時の道路(前述の「目黒道」)は江戸市中から白金を通り、行人坂を下って太鼓橋を渡り大鳥神社に抜けていましたが、行人坂があまりに険しく通行人が難儀していました。見かねた権之助が私財を投じて新しい坂を切り開きましたが、当時は江戸城を守る観点から勝手に道を作ることが禁じられており、権之助は事前に許可を取らなかったために、罪に問われて死罪に処せられたとも云われています。
坂の管理者 東京都


坂の景色


写真右:途中の歩道橋から坂上を見た景色
写真左:途中の歩道橋から坂下を見た景色

権之助坂全景(坂上)権之助坂全景(坂下)

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