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伊藤博文墓
更新日:令和6年12月3日
伊藤博文墓 | |
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種別 | 史跡 |
指定番号 | 第十九号 |
所在地 | 西大井6-10-18 |
指定年月日 | 昭和55年3月11日 |
見学 | 限定で可(例年文化の日前後の品川区の文化財一般公開にて公開。) |
詳細 | 石だたみに囲まれた円墳。高さ一九五・〇、円直径ニー〇・〇センチメートル。正面に、「従一位大勲位公爵伊藤博文墓」、背面に、「明治四十二年十月二十六日薨」と刻まれている。 墓所は、伊藤家が管理していたが、戦後は防長倶楽部の所有となり管理するようになった。右隣りに、やや小型の梅子夫人の円墓がある。 伊藤博文は、天保十二年(一八四一)萩藩(現山口県)の下級武士の子として生まれ、幼名は俊輔。吉田松陰に師事して松下村塾に学び、初めは攘夷を唱えたが、若くして木戸孝允(桂小五郎)に随って英国に留学し、帰国後、開国・富国強兵論に転じた。萩藩主毛利敬親に海外の形勢を知らせ、攘夷の非を説いて忌避されたが、幕府が長州征討の軍を進めると、藩と幕府との間の斡旋に奔走した。 明治維新後は、明治元年(一八六八)に参与となり、その後、工部大輔、参議、工部卿等、新政府の要職を歴任し、その間に再度、岩倉具視らと欧米諸国を巡って各国の制度を視察した。 明治十五年(一八八二)、三たび欧州に赴き、二年余にわたって憲法制度や行政組織などについて視察し、内閣制度の基礎を築き、同十八年には、初代内閣総理大臣となった。その後三回、通算四回首相の座について国政を指導した。 明治四十二年(一九〇九)八月、ロシヤのココウゾフ蔵相と会見するため、旧満州(現中国東北部)のハルビンを訪れた時、駅頭で朝鮮の独立運動家に狙撃され死亡した。享年六十九歳であった。同年十一月国葬が行われ、近くに自宅(大井三-ー八九旧(株)ニコン光友倶楽部)があったことから、この地(当時の大井村谷垂)に葬られた。 |
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